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海外で空撮そして危険度 [放送]

取材のため海外でも空撮をすることがある。

1986年、アフリカ中西部の国カメルーンのニオス湖から、有毒ガスが噴出し、麓にある村の住民1700人以上が死亡した。(戸籍がないので正確な死者は不明)。

「ちょっ遠いけど行ってくれる?」。

「いいですよ~」と答えたら、行き先はアフリカだった。

午後10時、まさかアフリカ?を告げられ 120キロの機材をまとめて夜が明け、翌朝6時に迎えがきて成田へ向かった。

黄熱病とマラリアの予防注射を成田で打った。医者は「抗体ができるまでに1週間かかりまっせ」と笑われた。

地球を半周して疲れ果てて到着すると、赤茶けた大地にヒマそうな兵隊がいてソニーのラジオを聞いていた。(左端の兵隊さん)

運良くフランス製のヘリにのせてもらうことができた。機内の会話もフランス語なのだ。

この時ほど、ヘリが頼もしくみえたことはなかった。なにしろ民間航空など存在しない国でヘリを調達するのは極めて困難だからである。

しかし、現在の海外でのへり空撮の基準では、こうしたフライトは安全面から許されないかもしれない。機体はKH4でエンジンは単発、東京の許可を得ることなく現場判断だけでやったからである。

緑濃いいかにものどかなこの村では、住民が全員死亡した。

しーんと静まりかえった村。

小鳥も歌わず、ミツバチの羽音も聞こえない・・・、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出させた。

死者を埋葬した土盛りがあちこちにあった。消毒用の石灰が散布してあった。

死者の国に迷い込んだような気がした。

その数年後、チェルノブイリを取材した時もそんな感じがした。

プリヤビチの住宅団地にある小さな公園の観覧車が、カランカランと風に揺れ、静かな恐怖を感じた。半径30キロが危険地帯(ゾーン)とされ立ち入り禁止だったが、日本を出るとき、「もう安全!」と上役にいわれ、はるばるでかけたわけだ。彼はKGBの「もぐら」だったのかもしれない。

しかし、「ゾーン」の中では、ガイガーカウンターがレンジを最大にあげても針は最大に張り付き、放射能を検地するフィルムバッジは、わずか数十分で1年分の放射能!と告げていた。同行したロシア人スタッフ曰く「日本人は勇気がある」。彼らは、車から降りてこなかった。

結局、チェルノブイリの安全宣言とは「死の灰で汚染された表土の上に、数センチの土でおおった」ものに過ぎず、依然として放射能は大気中にまきちらしていたわけだ。

タルコフスキーの映画「ストーカー」を思い出した。チェルノブイリ原発事故は監督の晩年に起きた。共産主義と芸術はしばしば相容れず、監督の制作状況は恵まれていなかったようだ。

原発周辺にカメラを向けるとしばしば「撮ってはダメ!」と拒否された。その都度、「ゴルバチョフ!」「ペレストロイカ!」と叫ぶと、彼らはずずっと数歩後退しその隙にカメラを回した。結構マンガチックだけど本当の話である。

あの映画の中に登場する「ゾーン」は、そのままチェルノブイリ原発事故の「ゾーン」をイメージさせる。監督もそういうつもりだったらしい。

チェルノブイリの監視を勤める人々は自らを「ストーカー」と呼んでいるそうで、監督自身も、「ストーカー」のロケをひどく汚染された化学工場跡で行ったために健康を害して亡くなったらしい。

ボクも大量の放射能を浴びたと思われるあれ以来、呼吸器系の調子があまり良くない。アルコールで頻繁に消毒してるけど、追いつかないようだ。イマなら組合で(まだ組合があるのなら)問題になるけど、世界初の被爆国の認識はそんなもんだった。

カメラマンの死因はヘリの墜落だけではないかも・・・ね。


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徳永昌弘

前の会社が倒産して、その3日前上田行きをキャンセルして大変申し訳ありませんでした。11にちニュースで地震を知り、予定だと長野着16時と聞いていたので、今頃は新幹線の中でした。よくよく運のいい私でした。ちょうど1ケ月前、34名つれて、横手かまくら祭りと最上川下り、最後が仙台泊まり。
地震発生した14時45分は、松島で自由行動していた時間です。翌日仙台空港発15時、2階ロビーで、牛たんを食べて帰りました。今思うとぞ~とします。
 先生が落ち着いたら東京に行きます。またメールをください。
 
by 徳永昌弘 (2011-03-15 22:05) 

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